多様性を認めることの難しさ

ハカセです。

世界的に安心できる見通しが一切無いまま、国は非常事態宣言を解除し、第2波に怯えながら経済が再稼働し始めました。先行き不透明な中、日本の全ての経営者は、手探りで前に進もうと足掻いています。

以前ラジオでも触れましたが、コロナ渦中、ずっと多様性について考えています。

ゴールデンウィーク付近、あんなに精神的に追い詰められたのは初めてでした。自分がもがいて、あがいている時、周りの目や意見・行動がとても気になり、目につき、鼻につき、大きな落胆と強い怒りが毎時交互に静かに襲いかかってきました。

家族や友人のサポートでかなり楽になりましたが、ふと考え直すと、自分自身の中にある多様性と闘っていたようなものでした。落胆・悲しみ・怒り・人の失敗による喜び・情けなさや慈悲、そういった複雑な感情や感覚は時に矛盾し、その矛盾という自分の多様性から目を逸らし、無理矢理に筋を通そうとすればするほど、痛みが跳ね返ってきました。

それを、頑張って筋を通そうとしなくていいんだ、筋が通らないことを恥じなくていいんだと思うようになって少し楽になっていったのですが、それは翻って、他人の多様性を認めることと繋がってもいて、人々はどうしても物事を抽象化して理解しようとしてしまって、そうすると対立が生まれてしまう、というものが際立って見えてきました。クライマーと非クライマー、経営者と従業員、大型店と個人店、関東と九州、大阪と愛知、金持ちと貧乏人、職種、業種、人種。そうしてカテゴライズしてしまうと、そこに多様性は見えなくなってしまいます。

マスクも付けず、コンビニにたむろしている若者。その若者の中にも多様性があり、それは自分のそれと大きく違わないのです。自分の中の多様性を認めること。そして、そういう複雑で多様な感覚を持っている生き物が、ほかにも77億人、この世界に存在していることをうっすらと感じました。

だから何だ、という話ですが。